10月1日 未明

ついに10月ですね。

私の肌と心をジリジリ焼いた夏の太陽は消えて
良い季節になりそうです。

毎年、あんなに待ち焦がれた夏だったのに。
一体どうしたんだろうね。

どんなに好きなものでも
たまにはイヤになる、
そういうことなのかな。

さて
(株)ダイツーWEB SITE
「まさぽんのカーライフレポート」
更新されましたよん。

私の祇園散策ポストカードプレゼント企画も行われています。

11.5Kb

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また、私がパーソナリティーを務めるインターネットラジオ
ネットアイドルパラダイス
は今回が最終回です。
どうぞお聴き逃しなく@

10月2日 未明

「洗練」という言葉は
物に対しても人に対しても、
そして人間関係に於いても使われ
愛でられているものです。

洗練された人間関係。

一体それは何なんでしょうか。

私もそんな訳の分からない現代のコミュニティーの中を綱渡りしながら生きている人間であることは否めませんが、時々心底、そんなものはクソっ食らえと思うときがあります。

少なくともね
大切な人たちに対しては、率直な感情を思い切りぶつけたいよ。

そして相手からも ぶつけられたい。

心からの泣き顔を見せたり、心からの笑い顔を見せたりしながら、互いの理解を深め、大切にし合いたい。

そういうのは、洗練されない泥臭い関係と称されるのかもしれませんが
私は、それ無しでは生きてゆけません。

それ無しでは
心の芯のほうから膿んでゆき、死に至るような気がします。

10月3日 未明

最近またテレビを付けるようになりました。
私にとって、テレビの果たす最大の役割は
「意識の収束を防ぐ」
ということです。

自分自身に意識が集中してしまうと、私は厳しく責めたてるような自らの視線に耐えがたくなり混乱します。

それを避けたいときにテレビを付けると、割と良い結果を導くことが出来るのです。

テレビをつけると、私の意識はそちらにいくらか分散されることとなり、それをキッカケとして部屋の中でまんべんなく漂いだすのです。

ただし、流す番組は環境映像的ドキュメントや、試験電波として流れる意味の無い外国の風景等に限ります。

ドラマやバラエティは、心の中に土足で入ってくるような効果音や世界を醸し出すので、あまり好きではありません。

まあ、どんな場合でも無音に設定するに限ります。

ただ、NHKのナレーションの中には、無駄な抑揚が付けられていない(つまり騒がしくない)ものも多く、そういう場合は音を出して番組を楽しんでみたりもします。

昨日の夕方には、西表島の原生林をレポートした番組が放送されており、それは非常に魅力的でした。

西表島=沖縄。
私はとても、沖縄に行きたいです。
白い砂浜を掘り返したり、ホテルのテラスでボンヤリ海を眺めたりしながら
ひたすら時間を消費したいです。

てなわけで
安易なオチが付いたところで今日はお終い。
また明日。

10月4日 未明

多少ひんやりとした風が吹くような季節になってきましたね。

ユニクロのフリースを着たまま眠りにつく季節です。
そうして起床した後、ズボンだけ履き替えて近所のスーパーへ豆乳を買いに行ったりする季節です。

先日 銀座で、ロングスカートの深いスリットの合間からフィッシュネットタイツ(網目の大きなアミタイツ)と、地面に刺さりそうな10センチのピンヒールブーツを覗かせて歩く私に向かって「Foxey!」と口笛を吹いたあの品の無い外国人は、この事実を知っているのでしょうか。

知っては居るまい。

そう思うと妙に可笑しい。



***

株式会社ダイツーWEB SITEに於いて、私のサイン入り生写真(ポストカード)のプレゼント実施中です。
10月5日 未明

4日の目覚めは何だか新鮮でした。
いつか昔、とっても昔に眠りについた私がやっと目覚めた、
そんな感じがしました。

暫くそのまま布団の中でボンヤリした後、所用があったので仕方なく 電車に乗って1時間くらいの場所に出掛けました。

ここ数日で痩せたヒョロヒョロの身体に
メイクもせずに髪を後ろで一つに束ね
手にはミネラルウォーターと文庫本。

「内向的な文学好きのベジタリアン」
とでもいうような風情。

いや、むしろあまりにステレオタイプな感じで、却って
「そのような人物を演じて悦に入っている女」
みたいにも見えるなあ
などと心の中で自分を観察しながら

でもまあどうでもいいや
と思って、しゃっきりした足取りで改札を出て、そのまま目的地に向かって軽く走ってゆきました。

暑くもなく、寒くもない季節。
顔に当たる風が心地良かった。

10月6日 未明

部屋に立ち込め浮遊するお香の煙と
部屋に立ちこめ浮遊する音楽の粒子

どちらの存在感が強いだろう?

私は後者に軍配を上げます。
昨日、部屋の電気を消してお香を焚き、ベッドに横になってフォーレのレクイエムを聴いていたのですが

音楽が終わり、CDが止まる機械的な音を聞いたときに
「あ、何かが行ってしまった」
という寂しさを感じて、やるせない気分になりました。

お香の煙はまだ部屋に残っていたのに
私は完全に一人ぽっちだったのです。

思うに
音楽を聴くということは、そこに込められた「作曲家の意図」や「演奏者の意図」というものを彼等と共有することであり
そこには他者との一体感が存在します。

でも、彼らが本当にそこにいるわけじゃないから
一体感の後に突き放される。

だから・・・・
CDが止まるたびに、私は彼らの不在を思い知らされ、多少の哀しみを受け入れねばならないのです。

10月7日 未明

何故私は伊藤雅代という存在として
ここに居るのだろうか。

最初にそうやって悩んだのは
たしか4歳くらいのときでした。

そのまま大人になりました。

答えの出るはずも無い疑問に抗うように
体内で巨大な歯車が回っていました。

「人生など短い、死はもう背後に居る、何かを成し遂げよ、死に追いつかれる前に、走れ、走れ、急げ。」

歯車の音はそのように聞こえました。

私は自分自身のエネルギーに圧倒されてた。
そしてそのうち 心底、疲弊したの。

くたくたになった私は

『逃げるな!真っ向から立ち向かえ!』
等、自分を叱咤する言葉を書いた壁の張り紙を全て外し、代わりに『程々』と書いた色紙を張りました。

それから3ヶ月が経った。
今、その色紙も外そうと思っています。

ニュートラル。

普通の自分を愛せますように。

10月8日 未明

新しいトップページを作りました。

これ。(←クリック!)

テーブルタグ多用の一枚構成。
無難・直球・明朗会計!って感じですね。
何故そうしたかというと

現在のトップページは頑張って4つのフレームで構成されていますが、もうここ数ヶ月でフレーム分割には多少の諦めを感じてしまったのです。

だって重くなるし。
真ん中のフレーム(最重要)だけが表示されず真っ白になっているのを見ると、ガックリ脱力すると共に哀しくなるんですもの。

あー、でも何となくまだ迷いが・・・
どうしようかなあ。
正直言うと、デザインは現状のほうが好きだよ。

10月9日 明け方

オーホッホ
徹夜明けのナチュラルハイです。
何をしていたかと申しますと、学研「デジタルCAPA」連載用の新作動画と、原稿の作成に勤しんでおりましたの。

今回の動画は
またしても相当、楽しみながら作ったため
始終 「ウヒ・・ヒヒ・・ウヒヒ」
という怪しい笑いを漏らしていました。
皆様にも気に入っていただけることを切に願っております。

・・・・・

ああ、微妙に、自分が何書いてるか把握できなくなってきた。
頭がグラグラするヨー

というわけで、この状態を脱するために今取り得る最善の行動、すなわち「寝る」ということを即座に実行致します。

おやすみなさい。

10月10日 未明

地面に対して平行に降る雨のように
銃弾が私に向かって飛んできた。
楯にしている車のボンネットが幾筋も削られてゆく。
それによって舞い上げられた砂埃が頬に当たる。

(生きたい。生きたい。生きたい。)
その一心で私は耐え、プラスチック爆弾をもどかしげに作り、必死で投げた。敵がいるであろう場所の左側でそれが炸裂する。

これで少しは攻撃が緩まるだろう。
そうやって少し安堵した私の前に
突如、敵が立っていた。

(しまった!)
思わず銃を構えたが、その次の瞬間さらなる驚きが私を襲った。
なんと、彼は私の古い知人だったのだ。

武器も持たず佇む彼に向かって
やっとの思いで一言 「何故来たの」 と尋ねると

彼は寂しげに笑って
「死にに来た」
と答えた。

そして私を見据えた。

涙と震えがとまらない。
私は、私は撃たなくてはならない。

だってこれは戦争なのだから。


↑↑↑
上記は先日 テレビで
「数時間以内に米国が攻撃を開始する」
というニュースを聞いた後 眠りに付いた私が見た、酷い夢です。

そして朝起きたら本当に攻撃が始まってた。

私は夢の中でも泣いてたし目が覚めたときも泣いてたし
攻撃開始のニュース画面を見ても また泣いた。

この夢に類似したシュチュエーションは、世界各地の紛争地帯に数え切れぬほど存在するのでしょう。いや、もっと苦しくて、やりきれないことが沢山起きているのです。目覚めることの無い悪夢の中でもがき苦しむ人達が、日々生み出されているのです。

そう思うと胸が痛くて
ここ数日はテレビを付ける気力が失せています。

10月11日 未明

左の写真は、株式会社ダイツー WEB SITEにてプレゼント実施中の「伊藤雅代 生写真ポストカード」の一部を加工したものです。


***

話口調には人それぞれの個性があります。
当然、選ぶ語句にも違いがあり、結果としてそれらは その人の特徴を他人に印象付けるものとなります。

私が喋るときに、よく使う言葉って何だろう?

順当な・随分と・ガッツリと・至極・純朴・牧歌的
喋りの神様・それはもう・地味ーに・平たーい
御降臨・弱キャラ・厳然として・おなかすいた
ナヌ!・ガーン!・イカン!・ローヤル
すら→いわんや→をや(反語)

うん、確かに これらは馴染み深い。
そしてあまりエレガントでは無いということが窺い知れる。

ガーン!

まあ、それはさておき
実際によく指摘されるのは
「文章と同じような喋り方をするんですね」
ということだな。

文語で喋る女ってか。

10月12日 未明

身体を捻る。
ベッドから上半身だけを床に落としてみる。

頭に血が集まってクラクラした。

そうやって、脳内に物理的な密度を感じはすれども、そこに拡がる空白は埋められない。

胸が苦しいのは何故だろう?
奥歯がギリギリと噛み合わされるのは何故だろう。

やっぱり今も人生は 静かな夜の森のようで
そこを手探りで進む私の神経は、研ぎ澄まされると共に張り詰める。

実家に電話したら母が出た。
「私は怖いよ」
と言ったら

「あんたなら大丈夫やて」
という答えが返ってきた。

「そうだね。またこうやって私に答えてね。」
と言って電話を切った。

これまで何度も繰り返されてきた
馴染みのやりとり。

確かに私はきっと大丈夫なのです。
自分で自分を鍛え守っているのだから。
そして母の言葉によってその実感は真実味を増すのです。

こうやって今日も一日を戦う。

10月13日 未明

昨日は表参道で
大好きな友達である美しいMさん(モデル)と一緒に
「鰻とウニのチャーハン」を食べました。
美味かった。

その後、大好きなブティックである
「Dancing-Heart」にて
アンティークなブラウスとネックレスを購入しました。
私によく似合ってます。

まだ遊び足りなかったので
スタバに入ってMさんと色んな話をして
チョコブラウニーを食べながら笑い転げました。

渋谷まで散歩して、駅でバイバイしました。

なんだかとってもステキな時間を過ごした
という感じで、家に帰った今も ふんわりと幸せです。

大好きだと思えるものは大切にしなきゃね。
それらは心のビタミン。
ささくれを潤し癒し、穏やかな空気を連れて来る。

10月14日 未明

部屋に置いてある2つのミニ観葉植物のうち、一つが紅葉してきました。
単に枯れているのかもしれない、という説もあるけれど、とりあえず綺麗だから毎日眺めています。

現在はベッドの頭側に 左から

 □紅葉
 □竹
 □アメリカで買ってきた茶色ガラス張りの「あんどん」

という順序でこれらが並べられており
私の部屋は

 あんどんに照らし出される竹と紅葉
 フォーレのレクイエム
 カモマイルのお香

という静かな環境に整えられ
反芻思考を独り味わう 秋の夜長の準備は万端といった風情です。

!!!!!!!!!!!
そんなのは特筆すべきことですらない!!!
季節に関係なく反芻思考を延々行ってるいつもの部屋だ。
引き篭もって沈むより遊びに行くぜ。ビバ銀座

と言いつつも結局出かけず
今日も夕食にウドンを作る。
これがまた美味いんだ。具はワカメと卵。
その名も「伊藤雅代流・曇り月夜ウドン」

10月15日 未明

街の雑貨屋さんに並ぶ
クリスマスツリーとオーナメント。

そんな季節になったんだね。

そのツリーは、片手に乗るサイズで
白い羽で出来ていました。

なんだか切ないツリー。
すぐに溶けて無くなってしまう粉雪を連想させるからかしら。

ねえ、私は今まで、いつも夏の太陽を追い求めて
身体の中にも太陽があって
それによって心が焼け焦げて苦しんでいたけど

今年は生まれて初めて
冬が待ち遠しいと思えるのよ。

空気が澄んで静かな季節。

ふうわり、と
雪が頬に口付けしてくれる。
そうやって、熱に疲れた心を癒してくれる。

だから私は
「寒いのは大嫌い」
なんて言わないで、毛皮のコートを優雅に着て
穏やかな気分で それを待ちます。

10月16日 未明

夜7時、都心へ向かう電車に
美しい顔立ちをした女性が乗ってきました。
20歳くらいで、スタイルも服のセンスも抜群でした。

彼女は私の前に座って
化粧を始めました。

塗れば塗るほど
野性的な、貪るような顔つきになってゆきました。

私はそれを見ていて
なるほどな、と思いました。

化粧は、仮面になるときもあるけれど
このように 隠された内面をあらわにするときもあるのです。

10月17日 未明

数日前より
ついに母までが、パソコンで絵を描き始めました。

というわけで、今日の
彼女のトップページ(←クリック)
は挿絵つきです。

この新しい試みをどうぞ御覧下さい。

彼女はある意味、私より随分と多才なので
いつも感心させられ、そして笑わせられてしまいます。
そのパワーは私を魅了して離しません。

まったくもって大好きだ。

10月18日 未明

数週間前、NHKで
古代ローマ帝国時代の大競技場
「コロセウム」
についての番組を放送していました。

歴代皇帝が威信をかけて企画した催し物の
主なテーマは「戦い」で

ライオン等の野生動物同士を戦わせたり
動物と人間を戦わせたり
杭に縛り付けた罪人を動物に襲わせたり
剣闘士(グラディエーター)同士を戦わせたりしたそうです。

そうやって、こけらおとしの数日間だけでも 数千の動物および人間が命を落としたといいます。

観客は皆、死の宴を目の当たりにして興奮の極みを味わい、また何度でも足を運ばずにはおられなかったそうです。

その心理は想像を絶しますが
画面が切り替わって登場した学者のコメントは以下のようなものでした。

「当時は日常の中で、豚や鶏を殺して神に捧げることを行っていました。コロセウムに於いて行われた殺戮は、それが一歩進んだ行為なのです」

文化の違い、とその学者は言っていました。
私たちとは全くの異文化なのです、と。

それを聞いて私は思いました。
(ああ、そうか。文化が違えば価値観も違うのだ。根本的な、正義とか道徳のモノサシさえも)

今更何を、という感じもしますが
あらためて目からウロコでした。

命の重みすら
考えようによっては変わってくるという驚異的事実。

一体、貴方は 何をもって「正しい」と定義する?

10月19日 未明

昨日は贅沢な遊びをしました。
新国立劇場へバレエを見に行ったのです。

演目は
ケネス・マクミラン版「ロメオとジュリエット」

これは演出家マクミランによって英国ロイヤルバレエ団の為に振付けされたもので、私が高校時代から繰り返し何度も、レーザーディスクが擦り切れるほど(デジタルだから実際に擦り切れることは有り得ないけど)見てきた大好きな作品です。

今回は新国立劇場バレエ団による上演で、右膝を故障した団員の代わりに熊川哲也さんが特別出演なさっていました。

なんというか
言葉にすると野暮なんですけど
とても良い舞台でした。

そうして私には新しい夢ができたのです。

「本家本元である英国ロイヤルバレエ団の『ロメオとジュリエット』を見るために、イギリスを訪問する」

という、ささやか且つゴージャスな夢。

その為に今日も精進します。
明日は大阪でお仕事。

***以下は深夜3時半に追記***

いまだ興奮冷めやらぬ。
眠れないのよ。というわけで話の続き。

本日のトップページで書いたバレエで使われている音楽はセルゲイ・プロコフィエフによるものなんですが、彼は私が最も好きな作曲家の一人なのさ。

つまり私は舞台をレーザーディスクにて何度も見ていたのに加え、音楽のみでも しょっちゅう聴いていたんだよね。
CDで、それこそ数百回。

ホントーに好きなんですよ〜
どれくらい好きかっていうとね〜
皿を洗いながらも口ずさむくらい好きなんだよォ〜(泣)

それを生舞台で鑑賞できたんだから
もうサイコーです。

寝ても覚めてもロメオとジュリエット。
いっそ夢の中にも出てきておくれ。

10月20日 未明

慣れないことに一生懸命になると
ヘマばかりして焦ります。

私ってこんなに、つたないキャラだっけ。
そう思って冷汗が出ますがやはり空回りし続けるのです。

全くもって私には
未熟な部分が山ほど有る。
それらは突然姿を現して伊藤雅代を慌てさせる。

何事に対しても悠然として居られるようになるまでには
あと100年くらい掛かりそうです。

長生きしなきゃいかんのねー

10月21日 未明

左の画像は、株式会社ダイツー WEB SITEにてプレゼント実施中の写真(ポストカードサイズ)を部分的に加工したものです。

昨日まで「ポストカード」と記載していましたが
「ポストカードサイズの写真(サイン入り)」と訂正します。
すみません。

そして昨日は同社の仕事で琵琶湖に行きました。
久しぶりに太陽の光を沢山浴びたので、身体が3割ほど灰になってます。

まるで吸血鬼のようだ。

というわけで、現在20日の23時30分。
まだ日付が変わっていないんですけど
早々と更新して寝ることにします。
おやすみ。また明日。

10月22日 未明

金曜日の夜から大阪入りしていたのですけれど、昨夕の新幹線で再び東京に戻ってまいりました。

バッグを開けると梨および生八橋が出てきた為、驚愕致しました。

これらは私が大阪を発つ前に
母が密かに混入させたものと推測されます。

ありがたや。

10月23日 未明

<おしらせ>
本日、23日火曜日。
司会します。
下記ページを御参照下さい。
セミナー概要(←クリック)
***

他者の目に映り 脳の中に刻まれる自分の印象こそが、客観的に判断される「自分の姿」なのだということは、当然であり単純明快な事実でありながら、いとも簡単に忘れ去られがちなことなので御座います。

「私はね、君が思うような人間じゃないんだ!
 私は、私は・・・もっと○○で△△なんだよ〜!」

例えば、このような台詞は
割と頻繁に聞かれる類のもので御座いますよね。

しかしこの「○○」とか「△△」とかいう部分に入るのは、この台詞を吐いた本人の希望的観測と申しましょうか、つまり「本人の理想とする本人像」が入る場合が殆どなので御座います。

つまり
「君が思うような人間じゃないんだあ!」
「こんな失敗をするような実力じゃないんだホントーは!」
というのは自分の非力を認めたくないというダダっ子的な考えから出てくる至って主観的かつ感情的な抗いなので御座いまして

そのような台詞を口にするということは、そのダダっ子ぶりまでもを皆様に対して披露してしまうという、いわば本人の傷口を広げるような行為となってしまうので御座います。

だからね、賢明な人たちは
まずは失敗を認めるのです。

「試験会場で緊張して、覚えたことを活かしきれなかった」という場合は、それがつまり現時点での実力なのです。

たしかに設問を解くに足る知識は持っていたかもしれません。
それは認めましょう。

しかし本番でその知識を駆使できなかったということは、その人には「試験会場」という一種の戦場に於ける状況を乗り切るために必要な能力のうち何かが足りなったということです。

それは何に起因するもので、どうやって克服するのか。

そうやって分析し、弱点をきっちりと潰してゆけば、次はきっとうまくいきます。 そしていつか本当に「自分の理想の自分」に近づいてゆくことが出来るのでしょう。

あせらずに、ゆったりと、楽しみながら成長できるといいよね。

では・・・ 8Kb また明日。

10月24日 未明

昨日は立派なセミナー
滅多にタンスから出さない一張羅のワンピース(『Dior』で御座います。ここポイントね)を着て、久しぶりの司会業を務めさせていただきました。

関係者の皆様おつかれさまでした。

いやー
今これを書いているのは深夜2時13分なのですが
ちょっと眠気が・・・

頭の中にこんな画像が浮かんで私を誘うのです。


・・・ 9Kb

吸い込まれそうです。
おやすみなさい。

10月25日 未明

さーて。
今日は何を書こうかね?

どうでも良いようなことですが
さっきテレビに有坂来瞳(ありさかくるめ)が出てたよ。
このうえなく不機嫌そうでした。
そして相変わらず目付きが暗い。
いや〜可愛いね〜。

どうやら私は「少し困ったような顔」とか「少し悲しそうな顔」をした女が好きなのです。 例えばモデルの小雪さんとか、親友の間宮さんとか。

また、自分自身に対して妥協が出来なくて苦しんでいる女性も好きです。

人生の悲しみや苦しみを見つめ 受け入れ 身体を削る人は、きっと色々なものがそぎ落とされて、ある意味洗練されてゆくのだろうと思うので。

とはいえ
あまりにも辛い思いばかりしてしまうと
燃えカスになっちゃうけどね。

というわけで
そんな地獄の炎にすら打ち勝つような
ギラギラ光る眼をした女も好きです。

ようは、ボンヤリ安穏としていない人が好きなので御座います。

・・・あら、いつのまにか文字が沢山。
これで今日も無事に「日々雑感」が書けましたわね。
めでたいことだ。

というわけで、また明日。

8Kb

バイバイキーン♪

10月26日 未明

私は今まで長らく
常に120% の力で仕事に取り組み
常に120% 人生を味わい、悩み、進むことが
まさしく理想だと思っていました。

でも昨日お風呂に浸かりながら
(あ、あたしアホやな)
と思ったのです。

1年しか生きないのならば、それこそ
3998% くらいの力で生きればよいのですが

私は・・・余命がどれくらいかなんて分かるはずも御座いませんが、まあ希望的観測も含め普通に考えると あと数十年は生きるわけです。

その長丁場を完走できなくなるほど疲弊して、途中で暫く休まなくてはならないような状態になってしまったならば

こりゃ、かえって効率が悪いわけですわナ。

ときには80%もしくは10%くらいに緩めてもよいのです。(仕事に関しては最低でも100%の力で取り組むことが必要だと思うけど)

人生全体の頑張り具合を眺めたときに、その平均が100%であれば、万事OKなんじゃないかしらね。

以上
ふと頭に浮かんだことを書いてみました。
ではまた明日。

10月27日 未明

普段、私の大まかな判断基準というのは

楽しそうか、楽しくなさそうか。
好きか、嫌いか。

という直感でほぼ完結しているのですが

人生に於いては
「それに反することを あえて行う」
というイヤンな感じの選択をせざるを得ない場面っつーのも、テンコ盛りなのよね。

なんていう常識を昨日久し振りに嫌というほど思い出しました。

ただそれだけ。
だからもう寝ます。

目が覚めたら、昨日過ごした時間は消化されて、私の一部になっていることでしょう。

全ては血となり肉となる。

10月28日 未明

私は

嬉しいときには、部屋で独り
息が切れるまで飛び跳ねたり叫んだり躍ったりします。

悲しいときには、部屋で独り
喉から血が出るまでゴウゴウと泣きます。

目の前に現れるものや、訪れる環境
それらが私にもたらす自然な感情によって
素直に反応を示してゆきます。

今までも そうでしたし
これからも そうです。

そうやって、この日々の瞬間を
身体に刻み込むようにして味わってゆきます。

10月29日 未明

今までずっと、つい数ヶ月前までは、強大なものや捻れたものや退廃的なものや狂おしいものが好きだったのです。

だから、車を「轢き」ながら進む(ぶつかるんじゃないのよ!ちなみに家も轢ける!)戦車が好きだったし、 プロコフィエフやマーラーやチャイコフスキー(ただし彼のピアノ協奏曲は大仰で嫌い)ばかり聴いていた。

反対に、ドビュッシーなんか
スカしてて退屈だと思ってた。
発散するエネルギー少なめ。
曖昧で潤んでて小洒落てる。

ほとんど聴いてなかったし、弾くことも出来なかった。あの曖昧で繊細で耽美的な世界を維持させるだけの根気と集中力が無かったので。

でも、ここ最近、フォーレの「レクイエム」(ただし入祭唱〜奉献唱は割愛)を 死んだように横たわりながら毎日聴きつづけた挙句に

昨日からついにドビュッシーの「版画」や「夢」にウツツを抜かしています。
弾いてみようかとさえ思っています。

それは私が少し成長したということなのだろうか。
倦怠と曖昧を受け入れるということ?


ちなみに彼(ドビュッシー)と私は誕生日が同じだったりします。
8月22日。
みのもんた氏とタモリ氏も一緒。

10月30日 未明

夏はサンダルを履くので、さすがにこんなモノグサな私だってペディキュアをします。

つまり足の爪に色を塗るということです。

でも冬はブーツだから、つま先が見えない。

この季節に及んでも足の爪に立派な絵を描いている女というのは、余程のネイルマニアか、もしくは余程好きな男が居るのだろう。

そんなことを、ふと思いました。

夕方になる前にビデオを借りてきて、立て続けに見ました。

私としては珍しい行為です。
ちなみにラインナップは

「燃えよドラゴン」
「ひまわり」
「グラン・ブルー」

ねえ、
新作を躍起になって鑑賞する前に
「ひまわり」を借りたほうがいいわよ。
まだ見てない人、は是非。

10月31日 未明

もし伊藤雅代が もう一人いたならば
私たちは二つの個室と一つのダイニングキッチンがある部屋に住むだろう。

通常はお互い干渉しない。

彼女が扉を蹴り壁に体当たりして嵐のように泣いている音が聞こえたら、私は自分の部屋で小さく笑うだろう。

しばらくして静かになったら
オムライスを二つ作って彼女の部屋に持ってゆくだろう。

それをコタツで並んで食べて
どちらともなく眠りに落ちる。
起きているほうは、本でも読んでいると思う。

いつのまにか朝が来て
私は部屋に戻って
普段の生活が始まる。


****

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