7月2日 5時50分

引越ししたいのに、引越しできない。

何故か。
まず、グランドピアノを置くことが出来る物件が少ないということ

そして私の収入が不安定だということ。

ガツーーーーン(打撃音)

7月4日 0時

「40にして惑わず」
という言葉を残した人は
すごいと思う。

私は今まだ20代だけど
40になっても惑う自信があるよ。

きっと
30代には30代なりの
40代には40代なりの
それ以降も、自分が置かれている状況に応じて
色々な悩みが出てくるんだろうだろうから。

いつまでも惑う。

もしかしたら、うまくしたら
それらを楽しめるようになるんだろうか?
そうすれば「惑い」も、惑いでは無くなるのだろうか。

はてな。

こんなとき脳裏をかすめるのは
母の歌声。

「ケセラセラ〜♪なるようになる〜♪」

キャリアウーマンだった母は、辛いことがあると
いつもこの歌を大声で歌ったそうな。

私も歌うぞ。オゥ。
そう、なるようになるのだ。
もし回り道をしたとしても
人生に無駄は無い。

7月9日 0時

焦っていないときなどあっただろうか?

小学生のときにも、旅行先のバスルームで
「ああ、今は沖縄にいるが時間は刻々と過ぎ、あっという間に過去となる」
と焦燥感に震えていた。そして、この瞬間バスルームで座っているという真実を私の中に深く深く刻み付けるためにはどうしたらよいのか考えていた。

そのときの私と今の私は大差無い。

先日も、時間や将来について友達と電話で会話を交わし、さりげなく勇気付けあっていた。

めくるめく日々の合間に人生を見据えるとき、必ず目の前に突きつけられるのは
「人生は夜の森と とても似ていて、なんとも恐いものなのだ」
という真実。

まさにサバイバルである。

友:「忙殺されて、何も考えずに、何にも気付かずに生きるのが一番楽なのかもしれないね。」

私:「ああ、もしかしたら、そうかもな。例えば渓谷の吊り橋を渡るようなものだ。危険に気付かず渡りきって、深く考えずに満足しているような生き方をしていると、安穏と暮らせるのかもしれない。」

友:「そうだね・・・」

私:「でも私は吊り橋を渡るという現実と対峙したいよ。『幸運にも、腐った足板を踏まずに済みました』なんてラッキーな偶然は期待してないし、自分には有り得ないと思っているからね。棚ボタは無いのだ。人生は自分のナイフ(能力)で切り開く。」

友:「恐いね」

私:「そうだね。やはり、ナイフを信じていても心もとないよ。」

7月14日 1時

「日々が楽しくないのは、自分が 『楽しいこと』 をしていないからなんですよ。」

「楽しいことはね、自分でしないといけないんですよ。」

「日々を楽しくする努力をしなけりゃ、日々は楽しくなんてならないんですよ。」

こんなことを言っている私は日々が楽しくない。
誰に言っているわけでもなく自分に諭しているのだ。

そう思いつつも試しに友達に向かって言ってみた。
すると彼は すかさずメモをとっていた。


確かに自分でも、もっともな意見だと思う。
そして一見 すぐに実行に移せそうな 「日々のヒント」 のように響く。

でも、こりゃー ちょっとやそっとで出来るもんじゃないね。


『ちょっとやそっとで出来るようなもん』 で日々が楽しくなるのなら

世の中から倦んだ人々は居なくなるだろう。


***


今日は山本文緒さんの
「眠れるラプンツェル」を読んだ。

昨日は江國香織さんの
「神様のボート」を読んだ。

一昨日はおーなり由子さんの
「きれいな色とことば」を読んだ。


読書は楽しい。

7月17日 1時

「日々雑感、楽しみにしてますよ」
と言われると最近うしろめたい。
だって

毎日更新(4年強)→たまにお休み→ときどき更新 (ここ数週間)・・・

という明らかなレベルダウンの道を辿っているんだもの
うしろめたくて「半笑いの中途半端な顔」になってしまう。
私は中途半端が嫌いなのに。

そう。
キーワードはこの「中途半端」にあるのだ。

以前はHPを運営するのにも明らかな下心 (誰か私を見てくれ、そして仕事くれ、という) があった。

でも今は "HPという公開履歴書" を通じて仕事を得るという方程式は弱まりつつある。それに従って、このHPの存在意義は以前より中途半端になっている。

さて、HPから離れたところでも日々の糧を得られるようになった私は、そこで満足しているかというとそうではない。

・30代、40代を見据えて今やるべきことは何か
・自分が本当にやりたいことは何か

という
「分かってたんじゃねーのかよ!?」
的な、自分にツッコミを入れたくなる程のスタンダードなお題でつまづいて、
『広い夜明け前の野原で鉛筆一本を握り締めて呆然と立ち尽くしている』
ような気分になっている。

つまりは現在、人生自体が中途半端なのだ。
駄目じゃん。

7月19日 1時30分


私は極端だ。

自己への確信と、自己否定の間で 振り子が
「スパーン!スパーン!」 と揺れる。
振り子のスピードはマッハの域。

それに伴って
異様に興奮している時期と、泥のように落ち込んでいる時期が交互に来る。

当然のように

「まったりと茶をすすりながら
 『ああ、庭のペンペン草がよく育ってるなあ』
 と シミジミ微笑む」

等の ゆとり には縁が薄い。

でもいいのだ。
草にも擦り傷にも気付かないほどに走る、そういう時期も必要なのだ。

本気で 「万に一つ」 のものを掴むために走りたい。
走る場所が、リスキーな けもの道であったとしても。

7月24日 23時

実家でピアノを弾いて暮らしてます。

イラストと原稿の仕事も終らせたし、とりあえず来週までは小学生に混じって夏休みなのです。

駅前に夕食材料の買出しに行き、
あまりの暑さに ゆらめきながら歩き、
スーパーの中で放し飼いにされているお子様達の
「キーッ!キィーーー!」
という金切り声に
(どついたろか。なんで親は何も言わへんねん全く。)
と眉をひそめ、
はたまたセミの大合唱を人間の言葉に見たてて
「おう、今 『シワシワ皺皺皺』 って鳴いとるで。ママ」
等、母と笑い

穏やかに一日を消化しています。

ここでは暗闇に怯えることも無い。


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学研「デジタルCAPA」発売中です。
今月号は写真がいっぱい。

■66頁からの中綴じ特集
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では、珍しくモデルを務めています。

■122頁からの連載
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では通常通りライターやってます。

是非ご覧下さいませ。
よろしくお願い致します。

7月30日 23時

言葉を扱うことを仕事にしているというのに
未だに正しい日本語が喋れていないのです。

例えば
高校時代まで使っていた
「ざっくらばん」

・・・・はい
「ざっくばらん」
の間違いです。

それは序の口

今日(!)
母親に向かって「昔のママは今より、がたいが良かった」と言ったところ、通じませんでした。

それもそのはずです。
”がたい”などという単語は存在しないのですから。

私はそれを”体格”と同じような意味合いで 普通に認識していたので、心底びっくりしました。
なんでこんな造語が脳にインプットされてたんだろう?

7月31日 23時

昨日ここで書いた
「がたい」という言葉。

存在するようですね。
手持ちの辞書では確認できませんでしたが、 掲示板で情報を頂きましたし、今日テレビでも出演者が使っていたので(しかも字幕つき)確かでしょう。

でも・・・今いちど辞書を引いてみたんだけど、
やっぱ載ってないよー。
この辞書がヘボなのか?

母はそんな私を横目で見ながら
「ママは今までガタイなんて聞いたことも使ったこともないで。どこの方言やねん一体」
と冷たく言い放っています。

ああ難しや!言語というものは!

英語を勉強する気力が萎えたわ。
日本語ですら、この有様なんだもの。


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